内観研修の体験談

白金台内観体験記

「人間関係」(30代 女性)

平成18年9月に、白金台内観研修所にて初めて集中内観をさせていただきました。それから私の人生は大きく変わりました。まるで過去に事実としてあった変わりようのない出来事が変わったような気さえしています。

1.内観をおこなったきっかけ
2年前、会社であるトラブルが起こりました。今考えればそれは本当に小さなことなのですが、当時は他に家族関係の悩みもあって、その出来事を受け止め、建設的に処理することができなくなっていました。カウンセリングを受けたり本を読んだりして、自分なりに解決しかけてはいましたが、どうもすっきりしませんでした。「答は自分の中にあるような気がする、でもその見つけ方がわからない」そんな気持ちでした。その時、随分前に偶然手にとった内観の本のことをふと思い出し、内観することを決意したのです。

2.集中内観の最中
私は大学生のときに両親を相次いで病気で亡くしました。私は彼らに対して反抗ばかりしており、最も傷つくような言葉をわざわざ選んで浴びせかけていたような子どもでした。ふたりの余命が少ないと知っても急には素直になれず、亡くなる直前にほんの少しの謝罪と感謝の言葉を言っただけでした。そんな両親に対して、してもらったこと、してあげたこと、迷惑をかけたことを最初は機械的に思い出していました。2巡目くらいから、自分のわがままさ、底意地の悪さに気づかされ、同時に両親の多大なる愛情に気づいたのです。こんな私を見捨てずに育ててくれた両親を思うと、心の底から申し訳なく、生きているのも恥ずかしくなりました。もう直接謝ることができないと思うと、本当に情けなく、亡き両親の前でひれ伏したい思いでいっぱいでした。
それから、離婚した元夫のことを内観しました。しかし、1巡目はうまくできませんでした。元夫に「していただいたこと」よりも「私がしてあげたこと」ばかり思い出され、イライラしてきたのです。面接のときに本山先生に「彼にしていただいたことは、私が強く頼んだからであって、彼が進んでしてくれたことではありません」と申し上げましたら、「頼んだ・頼まなかったに関わらず、とにかく『していただいたこと』を思い出すんです」と言われました。その後、言われたとおり彼に「していただいたこと」を淡々と思い出していたら、突然に解脱したような感覚に陥りました。
私はあの人に対して、なんてひどいことをしてきたのだろうかと。うまくいかないことをすべて彼のせいにして、心安らぐ家庭を築く努力もせず、あげくの果てには離婚を言い出して勝手に家を出てしまったのですから。それまで離婚に関しては少しも自分が悪いと思っていなかったのに、そこで初めて「自分のわがままで離婚に至ったのだ」と悟りました。そして、彼を傷つけただけではなく、彼を大事に育ててきた彼の両親に対しても、ひどいことをしてしまったことに気づいたのです。 さらに、8年前に縁を切られた姉について内観しました。小さい頃に抱いた姉への憧れや尊敬の気持ち、面倒をみてもらった思い出がつぎつぎに心に浮かびました。そして、世間知らずな私に生意気なことを言われた姉はどんなに気分を悪くし、傷ついたかと思うと、例え姉が許してくれなくても今すぐ謝りたい気持ちになりました。

3.集中内観後
内観が終わった直後の週末、両親のお墓に行きました。お墓の前でぼろぼろに泣きながら、両親に対して何度も声に出して謝罪とお礼を繰り返しました。離婚した元夫に対しても心から謝罪と感謝の言葉を伝えました。かなり驚いた様子でしたが、幸いなことに彼もそれを受け止めてくれました。そして、絶縁状態にある姉には謝罪の手紙を書き始めました。そしてこちらから連絡をとろうと思ったところ、激しく拒絶されました。やはり自分だけ変わっても無理なのかもしれない、今更受入れられるわけがないと、すごく落ち込みました。

4.内観の効果
自分が両親・兄弟・友人をはじめ、周りのいろいろな人の愛情に恵まれてここまで生きてこられたことに、本当にただただ感謝するようになりました。今までも周りの人に感謝はしてきたつもりでしたが、内観後ではその感謝の度合いや深さ、真剣さが全く違います。そして、行き過ぎる言動をとる人に対しても、あの内観前の私と比べたらたいしたことはないと、それほど気にならなくなりました。
内観をしてから半年後、突然身内が病気で亡くなり、葬儀で絶縁状態にある姉と顔を合わせる機会が訪れました。しかし、やはり気まずく、ひとことも言葉を交わしませんでしたが、帰り際になり、思い切って心付けと用意していた謝罪の手紙を渡してその場を去ろうとしたところ、姉に引き止められました。一瞬戸惑いましたが、とにかく姉の後をついて一緒の部屋に泊まることになりました。部屋に入って落ち着いたところで、私は今まで姉にとってきた態度や行為について、心から謝りました。それから私たちは明け方近くまで、8年間の空白を埋めるように話し続け、和解できたのでした。
 内観の究極の目標である「どんな状態の時も幸せに生きる」というにはまだまだかもしれませんが、以前は気づかなかったような小さな幸せをも感じとることができるようになっているのがわかります。

5.心に残ったこと
内観ですっかり心の垢がとれたような気になった私は、周りの人から傷つけられないこの研修所にずっといて、心の綺麗なままでいたいと思うような感覚にさえなっていました。外に出たらまた以前のような私に戻ってしまうのではないかという不安にさいなまれたのです。それを本山先生に訴えましたら、「例えて言うなら内観前の考え方は大木のように大きくなっているが、内観後の考え方はまだ芽が出たばかり。これからはその小さな芽のほうを大切に育てるように」とおっしゃいました。そして、他人が自分で解決すべき問題に対して、私があれこれ指図したり怒ったり落ち込んだりする必要はないということ。今あるもので満足して、ないものを要求しないこと。…本山先生からはいろいろなことを教わりました。

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「摂食障害」(20代 女性)

私が摂食障害になったのは17歳、高校2年生の時だった。きっかけは短期間での過激なダイエット。拒食の次に待ち受けていたのは過食症だった。「好きな人に少しでも認めてもらいたい」そういう思いを胸にダイエットは始まった。殆どカロリーの無い野菜のみの生活。体重は面白い程落ち、1ヵ月で10㎏落とした。しかし、その反動は大きく、極度の飢餓状態に陥った脳は、当たり前のように異常な食欲を.みせた。その食欲にはさすがに負け、狂った様に食べ物にありつく。それが満たされると今度は、「太る恐怖」が襲ってきた。それを打ち消すために、衝動的に無理矢理吐いた。その行為は癖になり、以後8年間続くことになる。
私は、もとから我慢するのが苦手な自分自身に甘い性格だ。しかし、その反面、完壁主義なところがあり、ほんの少しでも食べ過ぎたと認識すれば吐くことを考えた。吐くためには先ず、無茶喰いをしなければならない。初期の頃は、食べ過ぎてしまった時だけ行っていたが、徐々に習慣化し、毎晩の儀式になった。その他、何か嫌なことがあったりすると、ストレス解消の手段は食べることだけだった。ダイエット時には決して口に出来ないケーキや、他の高カロリーな食物を好きなだけ次々と口に運ぶ。何物にも変えがたい至福のひとときである。
そんな状態に陥っている私に、母は気づいていた。「あんなに食べているのに痩せていくなんておかしい」と嫌味を言い、冷たい視線だけを送っていた。気づかないで欲しかったが無視されたことの方がもっと辛かった。今、思い返してみると、もの凄く心配していた母に私のほうが気づかなかっただけなのだとわかった。しかし、もし母が私の話を聞いてくれていたら、状況はどうなっていただろう。
大学進学で一人暮らしを始めてからは、一人の寂しさと、周囲の目がないこともあって、過食行為はエスカレートしていった。多い時で1日に5〜6回繰り返した。そうして酷使された体は、力を失い、精神をも大きく蝕んでいった。脳の栄養失調によるうつ病。1ヵ月間全く外に出ず、デリバリーをとりながら過食嘔吐を繰り返した時もあった。着実に弱っていく体、しかし不思議と体調が悪い方が精神的には安心した。自分自身に言い訳が出来たから・・。
日常の不都合な出来事全部を体調不良のせいにした。そして痩せ細った私の姿を見て周囲の人は同情し優しく接してくれた。しかし時折、この様な非人間的な行為を繰り返す自分に嫌気がさす。無価値な人間に思い、存在すら許せなくなった。「こんなことはやめよう!」そう心に決めてもまた次の日には同じことを繰り返してしまう。「なんて意思薄弱で、最低な人間なんだ」そう思わざるを得なかった。
仕事をしていても、外を歩いていても、友達と遊んでいる時も、食べ物のことで頭が一杯だった。そのせいで社会生活が苦痛になり、現実から逃げる様になった。死を考えることも少なくなかった。「何故、私ばかりこんなに辛い思いをしなければならないのか?」常に悲劇の主人公であった。いっそのこと、胃破裂でも起こして死んでしまえと思った。タバコも異常な本数を吸っていた。自分を痛めつけることは快感だった。「ああ、私は一生こんな生活を続けていくのだろうな」この様な悪癖は絶対に治らない。そう思っていた。
当時この様な状態が精神病の一種であるということを知らなかったため、他の誰にも言えず、自分一人で悩みを抱え続けた。その中で病気克服に向けて行動もした。本などで調べ、摂食障害によいとされるものは何でも試した。精神科にも通い、薬物療法とカウンセリングを並行して行った。その他、断食療法、針治療、漢方薬、催眠療法等々。しかし思う様な結果は何一つ得られなかった。希望を失うばかりだった。
そんな時、たまたま知人から内観法のことを聞いた。勿論、その人は私の病気について知らない。書籍などで調べてみると「摂食障害にも有効である」と書いてある。しかし数々の失敗の経験から、完全に自信を失っていた私は、効果は全く期待しなかった。ただ少しでも精神的に楽になれたらと…。そして、いざ白金台内観研修所へと臨んだ。
過去の自分を省みると、自分が全く気づいていなかった潜在意識に触れることができた。すると、太ることへの恐怖感を越えるこの自虐的行為へと導く根本的な理由は、幼い頃から嫌っていた父への憎しみと、母に対する愛情欲求であったことに気づいた。父は、毎晩のように暴れ、祖父や母、私達兄弟に対して暴力を振るい続けた。家族は脅かされて、生活に精神的なゆとりなど全くなかった。そんな父と離れない母を恨んだ。商売をしていたため、幼い頃、母と一緒に過ごした記憶が殆どない。私達から母を奪うのはいつも父だった。顔を合わせれば罵声を浴びせ、愛情表現など全く見せなかった。怒鳴られ叱られ続けながら育った私は、自分を駄目な人間だと思っていた。そして食べることで寂しさを紛らわした。
しかし、そんな父は実は統合失調症であった。そのことは知ってはいたが、知らぬふりをしていたのだろう。内観を行い、冷静に過去を見たことによって、初めて認めることができ、父を許せる気持ちになった。そして「してもらったこと」を調べると,その多さに驚くと共に感謝の気持ちが込み上げ、泣いた。一晩中泣いた。今までの父への概念が180度覆されたのである。この心境の変化は、凄い効果を与えた。頑なに、父を憎み続けた自分を恥じ、どれだけ両親の愛情を受けていたかと思うと、幸福感で一杯になった。いかに自分は自己中心的で、全く周りが見えていなかったかがよくわかった。「感謝」という、生きていくうえで最も重要なことができなかったのだ。
内観を終えた私は変わった。全ての見方が以前とは違う。感謝するということを覚えた私は「生かされている」という実感を得た。周りの人達を大切にするためには先ず自分を大切にしなくてはならない。すると自然に過食の衝動は起きなくなった。完全に狂ってしまっていた食欲中枢も正常に回復し、本来の楽しい食生活を味わうことができるようになった。しかし必ず食事の時には重点的に「感謝」を行った。勿論太ることへの恐怖が完全に消えた訳ではないが、普通の人並み程度に収まっていると思う。最初の頃は、体重が増え“正直焦りもしたが1ヵ月経った頃には、逆に、吐いていた頃よりも体重が減っていた。 あれからもう半年経つ。過食の衝動が全く起きなくなったか?と言われると辛いものがあるが、ストレスが溜まってイライラすると、誰でも甘い物を多めに食べてしまうだろう。その程度である。完璧主義も軽減した。少しぐらい食べ過ぎても「吐いて体を壊すなら、太った方がましだ」と言いきかせられるようになった。そして、ストレスの捌け口をスポーツに変えた。今は体に良いことをするのが快感なのだ。
内観を体験することがなかったら、間違いなく状況は変わらないままであっただろう。この病気は、なった人間にしかわからない本当に辛いものである。今、この病気に悩まされる人は、増加していると聞く。私は運良く1回の内観で効果が得られたが、個人差はあるだろう。完治は望めなくても、必ず改善の方向へ向くと思う。自分自身を徹底的に分析することによって自分を知り、感謝をする。心の持ち方の変化が、この病気を克服する大きなポイントであった様に思う。一人でも多くの人々が、内観によって改善されることを心より祈っている。

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「職場でのトラブル」(30代 男性)

私はあるメーカーに勤める35歳の会社員です。4年前から1年に1回ずつ、4回の集中内観を白金台内観研修所にて受けさせていただきました。内観体験のきっかけは、今から4年前に会社から「戦力外通告」同然の異動を命じられたことです。その時、私は会社の役員や上司がいかに自分を軽んじているか、周りが見えていないかと、勝手に考えていました。そのため、仕事は適当に終わらせ、好きなスポーツ(ボクシングジムへ通う)を気の向いたときに適当にやるという、ダラダラした毎日を送り、自分の不遇を嘆いていました。
このようにして何もやる気が起きず、仕事でも失敗を繰り返し、夏季休暇中にやりたいことも特に無いから、以前泊まったホテルに置いてあった書物で知った「集中内観」を4年前のお盆に受けることにしたのです。やむを得ず始めてみたものの、最初の4日間くらいはただ事務的に過去を思い出しているだけで「内観」になりません。しかし、焦りが出てきた5日目頃、気づきと呼ぶべきものが突然やってきました。それは高校時代の「嘘と盗み」を調べている時でした。自分が所属していた野球部で後輩に対し、冬場の基礎トレーニングを全く指導しなかったことを思い出したのです。
私はそのころやっとレギュラーになれ、チームの最高学年でもあったため、自分は基礎トレーニングを真面目にこなしていました。後輩の中には指導されないと手を抜く選手もいたのですが、私は叱ることをせず、「優しい、真面目な良い先輩」を演じたのです。しかし、本心では「下手に後輩に真面目に野球に取り組まれて、レギュラーを取られたらたまったもんじゃない」という気持ちが自分のなかにあったことを、ありありとその時感じました。
「高校生になったばかりの大事な選手たちの、基礎体力を作る大切な時間と機会を、俺は盗んだ」とはっきり知り、他の物事に対しても「自分さえよければいい、むしろ他人は落ちて行けばいい」と考えて対処していたのではないか?と自分が怖くなりました。この時、とにかく涙と嗚咽が止まらなくなり、「すまない」という気持ちが湧き起こり、その後は内観がどんどん深まっていくのを、自分でも感じられました。そうしてあっという間に1回目の集中内観が終了しました。座談会が終わり、研修所の門を出た時、真夏の太陽が照りつけていましたが、その強い光を私は今も忘れることができません。
その時に感じた大きな幸福感は忘れません。それからものの見方、考え方が全く変わってしまいました。以前の惰性で生きていた自分が大きく変わったのです。内観後は非常に素直になりました。自分がいかに周りの方にご迷惑をおかけしていたかを感じ、「少しでも喜んでもらいたい」と以前の自分では考えられない考え方になったため、特にその頃の直属の上司にかわいがっていただけるようになり、毎日が生き生きとしたものに変化しました。
その後、毎年の恒例行事のように、お盆に集中内観をやらせていただくようになりました。内観を始めて毎日が楽しくなり、また、母も私の内観での変化を認めて下さって集中内観を受けて下さるようにまでなったのです。このように、集中内観をしてから良いことが多く起こるようになり、楽しい毎日を送っていましたが、昨年の後半から「逆風」が吹き始めました。 まず、昨年の6月に、左眼に網膜剥離という疾病を負い、合併症から8月に再手術、失明は免れたものの、視力が大きく低下したうえに、視界が歪むという症状が残りました。手術のために毎夏恒例の集中内観にも行けず 出社しても視界が歪んでいることから午後は頭が痛くなり、途中で帰宅せざるを得ないことが何度もありました。「内観はどんな逆境においても、それを幸せと感じる心を身につけるもの」と頭では分かっていても、「もう明日が来なければいいな…」と思う晩もありました。 そして10月、母が急性心不全で急死。ここで「母がいなくなったのだから、自分がしっかりしなくては」と気持ちを切り替え、苦しみながらも何とか葬儀を終えましたが、さらに12月、会社の業績不振から、今までの企画部門から今度は営業部門へ異動することとなりました。会社が苦しいのだから、自分が慣れ親しみ、有意義にやらせていただいた企画の仕事から営業の仕事に移ること自体は仕方がないと気持ちを切り替えられたですが、別の意味での大きな問題がありました。
異動先の上司は、私が1回目の集中内観以前、いい加減な対応をし、大きなご迷惑をおかけして恨みを買っていた人物だったのです。このとき「もうこれ以上苦しむのはこりごりだ。このまま会社に残ったら間違いなく嫌がらせを受ける。もう会社を辞めて、一からリセットしよう」と決心し、次の仕事や生き方を考えることと、母を偲ぶという二つの目的で、その年の正月休みに4回目の集中内観を受けることにしました。
4回目の集中内観は、これからの未来、悩みを抱える現在、数多くの受けたご恩・かけたご迷惑・あまりに少ないお返しを調べる過去を、意識が行ったり来たりする苦しいものとなりました。しかし、この内観中に不思議なことが起こりました。会社を辞めるのが前提で内観に来たのに、過去の自分を調べるうち、「ここで辞めても同じことの繰り返しだ」と思うようになってきたのです。内観が終わった後は、「苦しいけど、会社を辞めずに以前の自分を超えよう」と考えるようになりました。 現在では、異動当初は上司から嫌がらせも受け、慣れない仕事に戸惑いましたが、異動から約2ヵ月が経って状況が徐々に変化し、上司との関係が良好になって、仕事にもやりがいを感じるようになりました。
このように、30過ぎまで惰性で生きてきた自分が、今何とか生活できているのも、私にとっては内観のおかげです。ですから、毎日日常内観にも簡単ではありますが取り組んでいます。その内容は、夕方や夜に、その日1日の内観を十分、そしてあくる朝、母や父、弟や祖母に対する、昔の自分を10分調べるという簡単で気楽なものです。内観をしていても変わらない部分にいら立つこともしょっちゅうですが、そんな時は白金台内観研修所長の本山先生が言われた「内観は連綿と続くご先祖代々の問題を改善する、大事業です」という言葉を思い出し、「大事業」にあせらず取り組んでおります。これからも内観を続け、自分の足でしっかりと、そして皆さんとともに歩んでいきたいと思っています。

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「うつ病」(大学生 男性)

私が内観の存在を知ったのは大学1年生の6月頃でした。その1年位前からうつ病と診断され通院をしていた自分は大学に入っても友人の一人も出来ず、悶々と暗い日々を送っておりました。特にやることもなく、授業に出て適当にノートを取り、キャンパス内をうろついてから帰宅し寝るだけという生活を送っておりました。そんな時、たまたま本屋で内観の本を読みましたら、非常に面白く「これは凄い」と思いました。が反面、「こんな風にうまくいくのであろうか?怪しい宗教ではないか?」とも感じました。とにかく色々知る必要があると思い、内観研修所に問い合わせました。送られてきた資料を読むうちに、自分にとって内観が重要なものになっていくのを感じました。
「怪しい宗教ではないか?」と心配していた親をカウンセラーに説得していただき、2月の初めに白金台内観研修所へ伺いました。詳しくは書きませんが、自分の中の葛藤の一部が取れたのを感じて帰りました。
その年の秋のことでした。突然難病にかかり、命が危うい状態に陥りました。(後に医師にうかがったところ、この時はもうだめだと思われたそうです)。一番危なかった晩の事、意識が檬瀧として何が現実なのかわからなくなってから、脳裏に様々な思い出が浮かびました。「死ぬ直前に走馬灯のように思い出す」と言いますが、本当にそれと同じでした。その思い出し方が後で考えてみますと内観とよく似ていたのです。小さい頃から今まで他人様から良くしていただいたこと、そして多くの方に迷惑をおかけしたこと等を一気に思い出しました。これほどまでに他人様から良くしていただいたのに、何も感じることも無く勝手きままに生きて自分の魂を汚し放題にしている自分の姿が見えました。自分の汚れが怖かった。しかし逃げれば死の崖っぶちから落ちてしまうと感じた瞬間に、汚れを受け入れることができたのです。そして自分は医師に言わせれば「奇跡的な回復をして」生きて退院する事ができたのです。
もちろん生還できたのは走馬灯のような内観のお陰ではなく、現代医学と、地域では名医と言われていたその医師のお陰でしょう。しかし自分は今でもあの時に自分の汚れと向き合い、受け入れることができなかったら死んでいたであろうと思っています。
死を目前にして湧き上がったあのイメージが内観と非常によく似ていたこと、この経験から内観は人間にとって本質的な何かとつながっているのであろうと思うようになり、内観に対して絶対的な信頼を寄せるようになりました。そして一生内観をしよう、と誓いました。
その後、私は抗うつ剤等は一切飲んでいません。精神科医からも、完治のお墨付きをいただきました。ありがとうございました。

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「子育て」(50代 女性)

25歳になる娘が、仕事に関することで自信をなくし自分を失い、半年あまりにわたり、苦しみもがく日々を送っておりました。そんな折、ワラをもすがる思いで、娘と二人で白金台内観研修所の門をたたきました。「お役に立てると思いますよ」この大きな一言に娘をお願いすることにしました。
一週間後。「空や桜の花がこんなに美しいなんてはじめて知ったよ」。元々の娘以上にすばらしくなって帰ってきました。奇跡でした。こんなうれしいことはありませんでした。
ところが、気がつくと、こんどは私自身が自己喪失状態で、朝から身体も心もなまりのように重く何をするのもめんどうで1日ため息ばかり。こんな自分ではない筈。このままでは人生終われない。毎日そんな思いの中、頭の隅に「内観」の二文字が浮かびますが、勇気が出ず、時間だけが過ぎていきました。そんなある日、娘の一言で、内観に行くぞと決めました。
入所初日、実践前に、本山先生のレクチャーを全員で受けました。この時の先生のお話の一つひとつにビリビリと大変衝撃を受けました。そして内観開始後、最初のお食事。奥様のお手になるその食膳は、輝くオーラに覆われ、そのおいしさに一瞬で終わってしまいました。それ以後17回に及ぶおいしいおいしい食膳は、全部スケッチとメモを取りました。
正味6日間、朝5時から夜9時まで都合44回の七転八倒の内観体験。そして、明日が最終日という日の夜。それまで、バタンキューだったのになぜか寝つけませんでした。そして翌朝、目覚めた瞬間、「あっ私生まれ変わった-一」と強く実感。ご夫妻によって生み出していただいたと思いました。
内観後も奇跡の連続です。今まで、こんな「私」に会ったことがありません。洗濯物をたたみながら見上げた空の青さ、雲の、緑の、小鳥の美しさ。「ここがこのまま天国でしょう」と思う時、心より感謝の思いがあふれます。内観ってすごい。吉本先生すごい。
そして本山先生ご夫妻の魔法はてきめんの効果。これからもお二人の魔法の消えぬよう、内観生活に精進したいと思います。ありがとうございました。

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「スポーツ・トレーナー」(40代 男性)

内観は大学で教員をしていたときから知っていました。今回私が内観をしょうとした動機は、3年ほど前にトレーニングのコンサルティングとプロスポーツ選手のケアの会社を興したのですが、スタッフとどうもうまくいかない、このままでは会社もうまくいかなくなる、なんとかしなければという思いがあり参加しました。
やってみて感じたことは、いかに自分が感謝がないか、人にどれだけお世話になっているかということを気づかないで生きてきたということです。それによって、いかに自分自身の身体や心に無理をかけてきたか、無理、無駄、勘違いの塊であったかということを本当に感じました。何故自分がうまく動けなくなったり、自分の感情を上手に表現できなかったりしてスタッフとうまくいかなくなったかがよく分かりました。
また、予想もしてなかったこともありました。こういう仕事をしていて恥ずかしいのですけれども、私には1年半ほど前から原因不明の腰痛がありました。それが内観の最中にすっかり治ってしまいました。本山先生にお伺いしたら「そんなことはよくありますよ」と言われたんですが、今もなんともないのです。ちょうど3日目ぐらいだったと思いますが、母親に対する2回目の内観をやっている時、あることにお世話になっていることに気づいて、そのことを今まで全くないがしろにしてきた自分がわかったときにその変化は起きました。
私は身体をみるのが専門ですから自分の変化を感じやすいのかもしれませんが、頭が急に固くなってきました。するとメリメリと頭の骨が動き、次の瞬間、頭がバーンと開いたような感じになりました。そしたら、脳から脊髄にかけて暖かいお湯が流れ、自分の腰のところで止まる感覚がしました。その瞬間から腰の痛みが本当に無くなりました。
こういうことは、スポーツ選手でも同じようなことを言う人がいます。自分の内側の気づいていない部分を見るトレーニング方法がありますが、それをやっていると選手によって表現が違いますが、フラッシュをたかれる感じがするとか、痛い部分が急に熱くなるとか言って悪い部分が治る例を何例も経験してきました。今までその感覚がよくわからなかったのですが、今回の自分の体験でよくわかりました。
以前、私は日本のナショナルチームのトレーニングを担当していました。その時に外国の選手と日本の選手の体力的なデーターや技術力はあまり変わらないのに、どうして勝てないのかという疑問を持っていました。その疑問を解決するために大学を辞めまして、ヨーロッパに勉強に行きました。ドイツ、フランスを回って最後に旧ユーゴスラビアのナショナルチームのトレーナーとして働いていました。その経験でわかったことは、ここ一番の勝負がかかったときの日本選手と外国選手の間に気持ちの差があるということでした。
選手とコーチの関係が日本と全く違うのです。ヨーロッパでは本人の自主性を尊重するシステムになっています。コーチはプログラムされたものを渡すのではなく、本人が自主的に考えたり、自らの欠点に気づく方法だけを教えます。日本では教えますが向こうは気づかせるのです。日本では選手が何か意見を言うと、コーチに逆らうという感じになって人間関係がまずくなる場合がありますが、向こうではお互いが意見を出し合い、いろいろなことを決めていくのでかえって意思疎通が良くなります。そしてコーチは、話し合いの中で教えすぎないようにしています。日本のコーチは教えすぎています。教えすぎると選手の自主性は育たないし、本当の理解は得られないと思います。その差がここ一番と言うときに大きな差になって表れるのだと思います。 今回、内観をやっていて非常に感じたことですが、内観の面接は細かなことは言わないし、方法論さえ守っていれば本人の自主性に任せ、内観をさせられているという感じが全然しませんでした。ヨーロッパのコーチととてもよく似た感じがしました。いろいろな選手を指導していますと、いくら教えてもそんなに上達しませんが、本人が内面から何かを気づくと飛躍的に記録を伸ばす例を見てきました。
内観は自分をニュートラルに戻す感じがします。内観は心だけの問題を扱うものと思われるかもしれませんが、私のような立場から見ますと、心と身体のやじろべえの中心をみつけてくれる宝庫のような感じがしました。ありがとうございました。

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「ひきこもり」(30代 男性)

私は現在32歳です。20歳から27歳まで、ひきこもりをしていました。
家族と私の関係で言いますと、特に22歳から27歳の頃が最も大変な時期でありました。そんな私の精神異常に初めに気づいたのは母でした。家からあまり出ない位のことはおそらくそれほどは気にしなかったとは思うのですが、まず初めの異常行動は、家の中で1ヵ月位、家の誰とも言葉を交わさなかったことです。そして、家の中でティッシュペーパーを燃やすというような奇行もしていました。
母は当然、自分がどうしてよいのかわからなくなり、一人で精神科医のもとに通い、私のことを相談するようになりました。しかし、そのことを知った私は、怒りが爆発してしまい、直接には暴力はふるいませんでしたが、家の中の壁などを殴り、穴だらけにしてしまいました。そのような中で、どうにもならなくなった私は、とうとう死を決意し、母親に向けて「お前を呪ってやる。絶対に赦さない」と遺書を書き、精神科からもらった薬を大量服用しました。
しかし何と、私はその薬を飲み終わった直後に突然正気に戻り、「やばい、こんなことをしちゃったら本当に死んでしまうかもしれない」と思ってしまい、そのとき、私は「死にたいなんて嘘だ!俺は死にたくない!」と思いました。あわてて母親を呼び、母親に救急車を呼んでもらいました。私は「おまえを呪って死んでやる!」と遺書に書いた、その母親に助けを求めていたのです。このような屈辱感は、それまでの人生の中でも初めてのことでした。そして私は「今度は、本当に死ぬなら死ぬ。でも私は死にたくないから、限界まで生き抜いてやる!」と思いました。
そして、自殺未遂後の私の人生は、それまでの人生とは全く変わりました。それまでは、全て自分の力だけで「正しさとは何か?」という答えを見つけようと思っていたのですが「そのようなことは、自分だけで考えなくてもいい」と思えるようになりました。そして、それだったら誰かに助けを求めようと思いました。私は、自分でカウンセラーを探し、その人と定期的に会えるようにしました。とても楽になりました。そして徐々に外に出ていくことも苦ではなくなり、自殺未遂の2年後、27歳のときには、外に出ることは、全く苦とはならなくなっていました。
そんな私が内観と出合ったのは、とても不思議なことからでした。ひきこもりから抜け出し数年後のある日、私はカウンセリングなどで、ある程度の精神の安定を得て、チラシ配りのアルバイトをしていました。
その日は、ポスティングを会社から依頼され、郵便受けにチラシを配って歩いていたのですが、その街で、一つの建物が目についたのです。そこには「白金台内観研修所」と書いてありました。内観とは、私がどこかの本で見た名前と同じ名前でした。しかし、そのときはその本に書いてあった内容などは、ほとんど覚えていませんでしたし、ただ単に内観という名前が残っていたという程度だったのです。しかし、私はなぜかそれがすごく気になってしまい、そこをただただ通り過ぎるということができなくなってしまったのでした。
仕事の途中だとはわかっていながらも、私は「誰も見ているわけはないからいいだろう」と思い、再びそこに戻ってパンフレットをもらいにいきました。そしてそこのチャイムを押していたのです。 初めての集中内観で強く印象に残ったことといいますと、父や母への内観で22歳から27歳までの「迷惑をおかけしたこと」を調べる中で、自分自身のおこなった本当に残酷な行為が見えてきたということです。それまでカウンセリングをやって見ていたのは、ひきこもり前の自分ばかりだったので、内観をして初めて、ひきこもりの中で自分がやった家庭内暴力を生々しく目のあたりにして、とてもショックでした。
それまで私は、ひきこもりの時におこなった家庭内暴力も、家庭内暴力だとは考えていず、それを正しい行ないだったと思っていたのです。とても強烈で、とてもショックでした。しかし、親自身の受けたショックは、私が内観で受けたショックどころではなかったでしょう。集中内観後に家に着いた時、初めて父と母に深く、それまでのお詫びをしました。そして、そのようなことを通して、自分自身の新たな生き方への決意を心に刻み込ませました。
内観後、カウンセリングに行ったら、先生にも「ずいぶん変わった」と言われました。私の集中内観が終わった後に、私の家族は、父親と姉が集中内観をしてまいりました。これと同時に私自身も、2度目の集中内観をおこないました。 特に大きく変化が感じられたのは、2度目の私以上に、父親の変化でした。何か、それまで以上の存在の大きさを感じさせられるような変化がありました。具体的には、偏狭で恐くて自己中心的、しかも偉そうで、自分勝手で優しくないと私には思えていた、そのような父が、集中内観後には、寛容で、和やかで、思いやりがあり、穏やかで、みんなのことを考える優しい父になったように思えました。とてもありがたいことであります。
今は家を出てアルバイトをしながら自立しつつあるところです。このような内観に出合えたことを深く感謝し、今後の私自身の人生に、この体験を無駄にはせぬよう、一生懸命、日々精進し、少しでも多く社会に貢献できる一人前の人間になることを目指して、必死に、そして力みすぎずに生きていきたいと思っております。本当にありがとうございました。

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「子どものお陰」(50代 男性)

私が白金台を訪れ、集中内観を経験したきっかけは、中学生だった長男の非行でした。真面目に一生懸命働いてきたのに何故だという思いがありました。内観はうんと困ればよいとか、見る眼と聴く耳をつけてくれるとか言われていましたが、何のことか全然わかりませんでした。しかし、私の場合は、うんと困っていたことが幸いしたようで、藁をも掴む思いでひたむきに内観に臨めたのがよい結果になったようです。ダイヤの原石のくもりを除き、輝きを引き出してくれるとのことでしたが、これも何のことかさっぱりわかりませんでした。
4日目の水曜日ごろから、昔のことが泉の水が湧き出るように思い出されるようになり、その中から、していただいたことが次々見えてきました。して返したことは悪いことばかりで迷惑をかけたことばかり思い出されました。一週間が終わって色々なことに気づかせていただき、何よりも驚いたのは天地がひっくり返ったぐらい、ものの見方考え方が変わっていたことでした。何よりも自分の至らなさや愚かさ.無知を思い知らされたことです。新しい人生のスタート台に立ったという実感がありました。 もっと早く内観をしていればという思いと遅かったけれど、今からでも内観にめぐり合えた自分は幸せだという思いもあり、内観にいきあわせてくれた長男に「すまない、ありがとう」と心から感謝できました。すまないと思ったのは非行の責任が自分にあったことが理解できたからです。
わたしに見る眼と聴耳をつけていただいた証拠はとにかく本をよく読めるようになったという結果に現れました。今思えば、これは内観により、知らない間に六感の感性が磨かれ、ダイヤが光り出した結果だと思っています。見る眼聴く耳をつけてもらい鋭い感性が備わったときは、孫悟空の如意棒をもらったような感じでした。
「笑う門には福来る」「老いては子に従え」「負けるが勝ち」「信あるかないかその日その日の日暮らしに問え」といった先人の教えの素晴らしさが身に沁みてわかる心境です。私が集中内観の結果、得たと思われる中に、新聞を読むにしても、拾い読みが出来るようになったこととか、本を読むにしても最初に目次をさっと見て全体像を見ておくとか、物事の計画を立てるのが以前と比べものにならないくらい上手になったことがあります。まだまだ未熟で油断はゆるされませんが、仕事をする上での判断力や決断力も数段高まり、企業内観が有効であることも実感しています。
ここまで導いてくださいました、本山先生と吉本先生、親驚上人、お釈迦様に心底より感謝してペンを置きます。合掌。

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「会社研修」(50代 女性)

このたび、会社研修として集中内観を体験させていただいて、結論を先に申せば、この上もなく幸せな気持ちにさせていただきました。
自分探しの旅、自分の過去を探り、自分自身を見つめ直し、自分を知る旅でありました。母は4年前に他界しました。幼い頃、母にしていただいたことを調べるうちに、ああもしてもらった、こうもしてもらったと思い出し、共に暮らした日々のこと、母に導かれ、母から与えられたこと、自分をこんなにも慈しんでくださったこと、証拠を集めていくうちに、愛をいっぱいいただいたこと、私は屏風の中でいつしか泣いておりました。そして心の底からありがとうございましたと感謝してもしきれない気持ちを抑えることができませんでした。

[貴重な一週間]
長い一生のうちのたったの7日間、このわずかな7日間によって、こんなにも豊かな気持ちになり、身も心もリフレッシュした生涯忘れることのできない貴重な一週間。いかに人間らしく生きるべきか、成すべきか。自分自身が幸せにならなかったら何になりましょう。そして1日を無駄に過ごしていないか、こういうことを知るには有意義な7日間でございました。

[幸せに気づかない]
働く職場があり、今、健康で働かせていただいている主人に対しても、いつも何もしてくれない、と思っておりましたが、迷惑ばかりかけている自分に気がつき、現在が幸せすぎて、その幸せに気がついてないということも知らせていただきました。今後は素直な心と豊かな気持ちでいい人生が送れる、そんな気がしました。

[母苦難の日]
母は、40歳近い年で私を生んでくださいました。私は5人兄妹の末っ子として誕生しました。誕生の日はまさしく母苦難の日でありました。戦後まもなく大変な時期の子育て、50歳前にして最愛の夫にも先立たれ、心細く、苦労の連続だった母の厳しかった人生をふり返りますと、今の自分がどんなに甘いものか思い知りました。私には母のような勇気も気力もありません。生きていたなら、思う存分苦労話をじっくりと聞いてあげられたものを。

[強く生きられる]
集中内観を体験させていただいたおかげで、入門編にたどり着きました。これから日常内観を繰り返し繰り返し行うことで、いろいろな節目に出合った時にでも、くじけることもなく人生において幸福を感じることができ、もしも夫に先立たれ一人になったとしても、強く生きてゆけるという確信が得られました。この“強く生きられる気がする”ということが私には最大の収穫でした。このことが主人に一番に報告したかったことです。顔を見るなり、一週間、留守にしたこと、また研修に快く送り出して下さったことのお礼を言い、今までのわがままを詫びました。そして、この最大の収穫を報告しましたら、主人も共に喜んでくださいました。うれしい限りです。
現在は、日常内観が30分くらいしかできませんが、ずっと継続してゆきます。今では主人も内観したかと聞くようになりました。与えられた日々をしっかり生き抜くことにより、より充実した人生にすることができると、確信いたしました。

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「大学生」(大学生 女性)

内観当日は不安と緊張と、そして少しの期待を持って出発しました。白金台内観研修所に着いて、初めはやはり戸惑いましたが、思い出すという行為は案外すんなりとできたと思います。最初は母への内観からスタートしました。思い出すことによって、懐かしい、楽しかった、悲しかった、痛かった、嬉しかった、という自分の感情が湧き上がりました。しかし、徐々にその時の母の感情がわかってくるにつれて何だか言葉にはしにくい切ない気持ちになっていきました。
私は、大学から実家を離れて一人で暮らしたことによって、それまでの母がしてきた大変さや母のありがたみは実感していました。なので、とにかく母への内観は感謝感謝の再確認といった感じでした。けれど、普段いくら感謝しているといっても10年ほど前のことを思い出して感謝しているわけではないのです。同じ女としてきっとあの時、辛かっただろう、泣きたかっただろう、不安だっただろう、誰かに頼りたかっただろうという気持ちがわかりました。
私の中学生時代は父が単身赴任という形をとっていたので、その3年間は母が一人で私を傍で見守ってくれたのです。母は父がいないその状況で、私を志望高校に合格させるべく、自分も仕事をしながら、多くのプレッシャーを持って生きていたと思います。その時の私は、とにかく自分のことしか考えていなく、微塵もそんなことを考えたことはありません。この内観で、そんなどうしょうもない自分も今までの人生の中に存在していた事実と、素敵な母に見守られていた事実に気がつくことができて本当にラッキーだったと思います。
母は昔から、「母親」といった感じではなくどちらかというと友達のような存在でもありました。しかし、結局はしっかりと母として私を育ててくれて、なおかつ一人っ子である私にとっては姉でもあり、友達でもあり、一人3役をしてくれたのだと改めて感じました。もしも、私にも母になれるチャンスがこの先の人生であるのならば、私は「母のような母」になりたいと心からそう思います。
そして、私にとって一番身近な異性である父についての内観が始まりました。私は、まったく父との距離について疑問を持ったこともなく、どこの家庭と変わりなくこれが一般的だと思って生きてきました。しかし、どうやらそうではなかったようです。父とはやはり仲が良いとは言い難く、お互い思っていることを言えない、目を見て話すことも特になしといった関係でした。父のことは大切で、私を大切に思ってくれていることもわかっていたけれど、言葉で表すとすると、五感にひびく関係ではありませんでした。
1巡目の父についての内観では、ただその場その場の状況だけが思い出されましたが、2巡目の内観で、何かが私の中で変わりました。若かった父の笑顔、笑い声、私の手を握った父の手の温かさ、そんな事が急に思い出され、何だかとても胸が痛くなり切なくなりました。あの可愛らしかった私と若い父にはもう二度と戻れない、そんな風に思いました。「私、もっと甘えればよかったなあ-」そんな気持ちになりました。私にとって父はたった一人の父です。その意味がわかりました。
私は内観から帰ってきて、父に手紙を書きました。今の自分の気持ちと、そして今度会うときは二人で食事にでも行こうね、と。もしも、取り返せるものがあるならば、これから取り返していきたい、そう思います。そしていつか父が自分の子どもが私で本当に良かった、そんな風に思ってくれることを願って……。そして、これから心豊かな人間になりたい、そう思います。

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「司法試験」(20代 男性)

28歳、無職の私は、集中内観を経験した。それは、これまでの自分の人生が、いかに恵まれてきたか、そして自己本位であったのかに気づくまさに回生の天機であった。しかし、ここに至るには、長い経緯があった。私は地方の進学校から東京の大学、大企業と進んだが、そこで仕事への不満をきっかけに弁護士になりたいと思い、入社3年目に辞職し、司法試験の受験勉強を始めた。
大学の学部は経済学部であり、法律はほとんど何も知らなかった。無職になり背水の陣で挑み、毎日必死で法律の勉強をした。ゼロからはじめ、3年になろうとしていた。合理的な方法を探り、勉強時間も誰にも負けていないはずだった。しかし、3度目の不合格になってしまっていた。まずい。これはまずい。自分のどこが悪かったのか、見当もつかなかった。いや、すべてが間違っている。どこが悪いのかを判断する自分自身すべてが間違っている。
司法試験もやめよう。でも、今の.ままでは、人生何をやってもだめになるだけだ。不景気でどんな職にもつけないかも知れないが、今のままではどんなに日本が好景気でも、駄目になるだけだ。何かが決定的に足りない。近所の禅寺に行き、40分ずつ2回ほど坐禅を組んでもみた。そんなときに本屋でふと手にした本が、内観との出合いだった。
そして、白金台内観研修所での集中内観後、せめて3年間法律を勉強した記念を残し、今まで応援してくれた人へのせめてもの顔向けに、司法試験とは違う法学検定試験を受けた。受けたからといって、ただ法律の知識があることを証明するだけの試験である。そこであらためて法律の条文を読んでみた。すると、以前は、ただ難解で無味乾燥に感じられた法律の条文や論文が、実は非常に優しく、思いやりにあふれたものであることを発見して衝撃を受けた。
一般的に法律は、型苦しいもの、拘束するもの、というイメージがある。自分が弁護士になろうと思ったのも、そんな法律知識を武器にして、他人を見下し自己顕示欲を満たそうとしていたに過ぎなかったのではないのか。見慣れたはずの法律書が、まったく別のものに思えた。法律の条文や、分厚い本が、語り掛けてくるような気がした。人間社会の争いは、無限にある。それを解決し、社会の秩序を保ち、みんなの幸せを図るため法律がある。しかし、法律が争いのすべての場合を網羅することは不可能である。抜け穴は必ずあるどころか、むしろ抜け穴だらけで不器用なのが法律であり、その穴は、法律家の皆さんにお任せしますと言っているかのようだ。
そして法律は、対立する当事者の争いを、公平に裁く基準となるものである。公平に裁くには、どちらかの肩を持ってはならない。自分は、どちらかの立場からしかものを見られなかったからこそ、つま.り相手の立場を理解できず自己本位だったからこそ、法律を「拘束」としか感じなかったのだ。あるいは「武器」として感じたのだ。そして、あまりに自己本位であったからこそ、していただいたことに対し、して差し上げようという公平の意識が欠落し、法律が公平を図るためにあるという当然の解釈態度に気づけなかったのだ。
自分は、他人様の生命や財産に直接かかわる尊い仕事をする人間ではなかった。そして、今までの学校での勉強で、いや人生で、自分の間違いはまさにここだったと確信した。そう思うと、これまでの高校、大学、仕事、受験すべての過程が、ここにいたる必然の経過に感じられた。喜び、怒り、悲しみ、苦しみすべてが、法律家となり自己の存在を社会に返すための必然で必要な準備期間だった。がんばろう。自分なるもの一切を法律に捧げよう。一挙一動のすべて、1回の呼吸そのもの、頭をよぎる一瞬の思考すらも、法律に捧げよう。
幸いにも、両親は私が受験を続けることにつき応援を約束してくださった。そして、天地自然の恩恵のもと、五体満足で健康な体が与えられている。これまで、お世話になったことに対し何も応えることのない自分であったのだから、これからは、あらゆる困難に対し一ミリたりとも逃げることなく立ち向かおう。いや、喜んでこの身に引き受けさせていただき、報恩のときに変えよう。自分なるもの一切に、しがみつく価値はどこにもない。自分の個性と思っていたもの、趣味、持ち物、すべて利他的視点からみると価値はなかった。
これらを捨てるのにためらう必要はないし、ためらう資格もない。法律にすべてを捧げようと誓う自分自身さえも、捧げよう。どんなに努力しても司法試験に受からない可能性はあるけれど、目覚めた自分をもって一度だけ試し、これでだめならしょうがない、本当にあきらめよう。そして、勉強自体はあくまで人にして差し上げたことではないという自覚を忘れずにいよう。
再び、勉強の毎日が始まった。そして私は、翌年の司法試験に合格した。試験の時は、気負いも不安もなく、ありのままの自分を、ただ見ていただくのみ。良くも見せず悪くも見せず、私はかくのごときものですと、ひれ伏すことだけが私にできることだった。マークシート、論文、口頭試問の各試験の合格発表のたび、うれしいというより、ただホッとしただけだった。これで今までの恩に応えることができるという安心と、法律の条文が語りかけてくるという確信は、決して自分の独りよがりではないという証明が得られたような気がした。自分自身の力で合格できたとは思えず、何か見えざる運命に導かれているかのような感覚だった。両親等の家族、恩師、先輩、後輩、取引先、同僚、親友にお世話になったこと、そして多くの受験者の無念の涙の中で、法律知識をもって世の中の役に立つことを許された喜、かたじけなさを、一生涯忘れず生きていきたい。

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「不登校」(中学生 女性)

1.動機不登校になってからの生活
中学1年生の冬、不登校になる。いじめ、病気などの原因はなく不登校になる。朝11時頃まで起きられなくなる。目覚まし時計などを使い、起きようとするが、頭痛、腹痛、吐き気、下痢の症状がおきてしまい、起きられなくなってしまう。
中学2年生の1月、飼い猫5匹が病気により死んでしまった。1月2日から1月7日まで、わずか5日で全滅。飼い猫の死から立ち直れなくなってから一週間後、ある大学生の内観体験手記を読む。その時は、特に何も感じなかった。その後しばらくして「このままではいけない」と思い、立ち直る何か良い方法はないかと考えていたところ、大学生の内観手記を思い出し、内観をしてみようと思った。それともう一つ、中学2年生の9月からクラブ活動に参加するようになり、授業に復帰するために内観をしてみようと決心する。1月末「白金台内観研修所」にて一週間の集中内観を行う。

2.不登校時の状態
朝になると、頭痛、腹痛、吐き気、下痢の症状がおこる。不登校になってから1ヵ月後まともな食事をしなくなる。その後、特定の食べ物だけを1ヵ月程食べ続ける。昼夜逆転の生活になる。外出はほとんどせず、一時期無気力状態だった。

3.内観中の出来事
1日目
内観研修所に着くまで不安で一杯だった。内観研修所に着き、見送りに来てくれていた母とも別れ、一人8畳の部屋の片隅に座っていると、不安と寂しさがこみ上げてきた。内観の説明を受けた後、部屋の一角に屏風を立て、その中に座り、目を閉じて内観をしてみた。内観を始めて5分とたたないうちに「家に帰りたい」という思いが頭に浮かんできて、内観に集中できなくなった。それでも何とか、1回目の面接までに内観することができた。
食事は非常においしく、内観中の一つの楽しみだった。食事を扉風の中でいただくということには驚いた。食事の時くらいは屏風から出るのだろうと思っていた。1日目はまともに内観できなかったが、内観終了時刻の9時まで、何とか屏風の中に座っていた。
2日目
朝5時起床はとても大変だった。冬だったせいもあり、起きるのがつらく、朝の掃除も面倒だった。掃除が終わると、朝食まで30分程時間があり、その30分も内観する時間だった。しかし、眠気と空腹で内観に集中することができなかった。朝食を食べ終わり、内観を始めると再び眠気に襲われ、座りながら寝てしまった。夢の中で、内観をしなければならないと思う自分と、内観なんかしたくないと思う自分が戦っているような感じがした。1時間程たって目が覚め、再び内観を始めた。しばらくして本山先生の足音が聞こえてきたので、内観をしていた内容をまとめて面接を受けた。その後、2日目の内観は無事終了した。
3日目
3日目は父に対する内観を中心に順調に進んだ。3日目になっても家に帰りたいという思いが強く、内観をする妨げになった。
4日目
朝起きるのにも慣れてきて内観も順調に進んでいた。しかし、その夜、姉に対する内観を行こなっている途中、突然激しい孤独感と悲しみがこみ上げてきた。ずっと心の中に押し込められていた感情だった。面接の時も、涙が出てきてちゃんと話すこともできなかった。その後、夕食の時に姉に対する内観を振り返ってみると、再び激しい孤独感に襲われ、食事ができない状態になってしまった。全く手をつけていない食事を見た本山先生は心配してくださって、食事の後の面接を中止してくださった。その後、寝床につきながら自分が押し込めていた感情について考えていると、何か安心したような気持ちになった。
5日目
朝起きると体調が非常に良く、気分もすっきりしていた。妹に対する内観を行う。
6日目
内観の生活にも慣れて屏風の中に座るのが苦ではなくなる。嘘と盗みについての内観を行う。
7日目
内観最終日、朝から家に帰れるのがうれしくてうれしくてしょうがなかった。最後の内観を終えて迎えに来てくれた母に会うと、なぜか喜びで胸が一杯になった。一週間ぶりに外に出ると、今まで見てきた景色が非常に美しく見えた。空気も清々しく、気分もとても良かった。

4.内観後〜現在
内観を終えて7ヵ月後、中学校内の相談室に通い始める。さらに3ヵ月後、教室にも行くようになり、授業にも復帰した。さらに2ヵ月後高校受験をして合格する。現在、高校に通っている。

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「パニック障害」(20代 女性)

半年くらい前からつきあっていた男性に「この人は少し異常だ」と.いう思いになり、別れ話をしたところ「別れるなんて言えなくしてやる」と言われ、今までに体験したことのない完全に異常な暴力を受けました。身体の暴力はもちろん、言葉の暴力、私は監禁されていました。初めは何度か逃げ出そうとしましたが、その度にひどくなる異常な行動、言動。私の精神状態はおかしくなっていきました。何もされたくはないので、自分の意志とは逆に言うことをきくようになっていきました。
以前に、私は1歳半になる子どもを置いて離婚をしていました。「これはきっと子どもを置いてきた罰なんだ」と思ってしまっていました。男性が他の異性に興味が移った時、私は解放されました。しかし、家に帰れてからも、まともに外に出られず、人が恐くて精神科へ通いお薬に頼るようになっていきました。
そんな時、友人がお店を出すので一緒にやってほしいという話がきました。「今のままではあの男に負けてしまう」というとても勘違いな考えで、離婚後からしていたホステスの仕事に戻りました。いま考えてみると、とても恐ろしいことをしていました。お酒とお薬を一緒に飲む形になっていて、記憶がとんでしまう時がありました。そんな生活が嫌になり、薬の量も増えていき、薬がなくてはとてつもない不安が襲ってくることが恐くなりました。ノイローゼ、うつ病、自律神経失調症、アダルト・チルドレン、自分が何の病気なのかもはっきりしていませんでした。
父は酒乱で酔うと母に暴力をふるっていました。そんな生活を10何年も我慢をしていた母でした。親の言うことは聞かないくせに、心の底では、「ちゃんと愛してほしい」という身勝手な思いがありました。でも、素直にはなれずに私は親の大変さもわかろうともせず恨むようになっていきました。
その後、家出を繰り返し、高校中退、妊娠し結婚、子どもを置いてきての離婚。ホステスを始めて不摂生で自分をいじめていました。その後に監禁され、今度こそはと2度目の結婚。そして離婚。借金もありました。本当に私にとっては大変なことばかりで、頭が混乱してしまいました。いつも私は人のせいにばかりしていたので、混乱しているのに気づいてはいませんでした。しまいには、人をすっかり信用できなくなり恐くなってしまった自分のことが嫌で、嫌なことからは逃げて自分で気持ちの整理ができずに、自分からも逃げてしまっていました。
どうしたらいいのかわからずにいた私は、周りの人に助けていただき、精神科に行くのをやめて心療内科の先生を紹介していただきました。「やっと信用できる先生に出会えた」と思いました。病名も初めてはっきりしました。「パニック障害」という病気でした。それまで6種類飲んでいたお薬が一気に1錠になり、とても苦しくて、以前からあった「もう疲れた。もういい。ずっと眠っていたい」という気持ちが強くなりました。一日中横になっている方が多い一日で、悪い方へ気持ちがいかないようにいつも何かを考えていました。
対人恐怖症の症状が一番苦しくて人混みには行けない。人に会って楽しく話がしたいのにできなくて、人の話を聞いているのが恐いのです。「自分で治すしかない」と漠然とわかってはいても方法がわかりませんでした。こんな生活がいつまで続くのか、病気はどうしたら治るんだろうと思っていた時、先生に「内観療法」を教えていただき、治りたいという気持ちと、不安な気持ちで内観をさせていただくことにしました。
いざ、内観研修所へ行ってみると、不安でたまらなくなり、部屋の方へ案内してくださった奥様の前で泣きだしてしまいました。奥様の優しいお言葉でなんとか落ちつきました。内観をさせていただく前に、本山先生から説明がありました。その時に、不幸になる人は「自分勝手な人。被害者意識が強い人。甘えの強い人が多い」とおっしゃっていて、私は全部あてはまると思い、途端にまた不安になり「どうなるのだろう、私にできるだろうか」とすっかり弱気になっていました。その日の夜から内観をさせていただきましたが、私はまだ不安の方が強くて、自分のことを客観的に見ることができませんでした。
2日目は内観させていただいているのに、私はまだ不安なのか、母に対しての罪悪感なのか、はっきりしないまま、本山先生に泣きついてしまいました。とても母に会いたくて淋しい夜でした。
私に変化が訪れたのは、3日目の朝でした。とても素直になれた朝でした。なんとも言えない穏やかな気持ちで、お薬を飲まないでいても大丈夫でした。約7年間お薬を飲まないでいて大丈夫な日はなかったので、びっくりしました。
4日目に自分の悪いところに気づかされました。自分の思う通りに内観できず「内観ができません。思い出せなくなりました。帰った方がいいです」と、面接の時間でもないのに本山先生に言いました。本山先生は静かに「あなたは完璧主義なのですか?焦らずにその時にできることをすればいいのです。今、帰っては今までとまた一緒です」とおっしゃいました。それからの内観は、ありのままの自分を受け入れていくような内観でした。「愛されていない」と思っていた両親への憎しみがなくなり、申し訳ない気持ちになりました。
本山先生に素直に弱音を吐いたように、何事にも最悪の状態になる前に、弱音をはいて頼ればよかった。いつも最悪の状態になってから、とんでもない迷惑ばかりかけて、心配をかけっぱなしでした。2度の離婚も、監禁されたことも全て相手のせいにばかりしていました。自分で選んだ人です。自分のせいなのです。私は今まで、焦ってばかりいて悪い方へどんどん進んでいき、自分で自分を悪くしていって病気になったのです。そう思えると、今まで病気の自分がすごく嫌だったのが、「私は今、病気です」と受け入れられました。
それからの私の内観は、決して深くはありませんでしたが、自分を好きでいられることがとても幸せでした。自分を知るというのは私にとっては苦しいことでした。でも、それを言葉にして出していくと受け入れられました。受け入れられなかったから苦しかったんです。
帰りに、自分の変化に驚きました。以前だったら人混みに行くと動悸がしていたのに、とても穏やかでした。ただずっと、現在の私の両親に早く会いたい、内観に行かせていただいたお礼が言いたい、とそれだけでした。内観は、現実からずっと逃げていた私を、現実に戻してくれました。私はそう思います。現在、「現実は厳しいなあ」と調子が悪くなったりすると思い、自分の弱さにぶつかりますが、以前のように景色が色あせて見えて現実感がない私には戻りません。三歩進んで二歩下がるというような状態ですが、前に進んでいきます。過去のことを忘れることはありませんが、過去のことで自分を苦しめることはありません。

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「医学生」(20代 女性)

私が最初に内観を受けたのは、学生の時にカリキュラムの中で7週間の自主研究があるので精神科を希望し、精神療法を受けるチャンスにしょうと考えた。担当のドクターの話で内観療法を知り、うさんくさいと思うたがなぜか試してみようという気になった。一晩、自己流の内観をし、布団に横になって父や母にしてもらったことを考え、いろいろなことが思い出され涙が出てきた。翌日、目がはれていたが気分はすっきりした。この『にせ内観』を機に内観を受ける決意が固まりこの1月末に白金台内観研修所に来た。
スタートから、『自分は正常な人間で、医学生として研究のために内観をするのだ』という態度をとった。本山先生の話をきいて、改めて身をひきしめてやろうと思ったが、ふまじめな内観しかできず、眠ったり悪夢を見たりした。テープを聞いてそれを模範解答として、そのパターンで答えていたので深まることがなかった。やはり、20年間つきあってきたゆがんだ性格が、わずか数万円の投資で、たった一週間で仏さまになれるわけはないなあ、とためいきをつきかけていた。
金曜日に転機が訪れた。父母、祖母と内観をやって、次に誰をやるかという時に、今までの人生ではじめて、『死んでくれていい』と思う相手に対する内観をしたいと申し出て、その人について内観をした。そのとたんに内観がストップしてしまったが、励まされて何度も何度もやっているうちに、相手の気持ちに気づき、そして、相手との確執を作った原因が自分自身にあることに気づくことができた。そのあとは、家族や友人への内観はほんとにたやすいことだった。金曜日の夜、わたくし流の『にせ内観』を行ない、ぽろぽろ涙を流しながら、両親のいる松本にむかって何度も土下座をしながら、眠った。
一週間を終えて帰る時、東京は大雪で故郷への道はすべて閉ざされていた。それにもかかわらず、東京の人ごみのあたたかさや、JRの人が雪をかいて私の故郷への道を広げていてくれることへの喜び、電車の中で席をゆずったら喜んでくれた見知らぬおじさんの笑顔に胸が一杯になった。
友達に会って、何だか丸くなったと言われたが、一週間たつとただの人になり、レジの順番待ちでぬかされたぐらいで半日怒り狂うくらいのふつうの人に戻ってしまった。それでも自分の中で内観によって何かが確実に変わった。完全無欠のパーフェクトにはなりきれなかったが、それでも少しずつ変わっていけばよい。そのための努力をしょうと思うようになった。次第に感動がうすれてしまったが、内観との出合いを自分の変革の第一歩にしたい。

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「非行」(40代 女性)

私が内観に出合えましたのは、今から9年ほど前の夏のこと。当時、私は三人の息子の子育て中。その中でも、二男のことで長い間悪戦苦闘を続けておりました。ちょうどこの頃、いろいろなことはありながらも、何とか高校生になった二男。ところが入学してまだ日も浅いうちから次々と問題を起こし、5月にはとうとう学校から謹慎処分。高校生活の頼みの綱だったサッカー部も続かず、親しくなった友達とは夜遊び、外泊。次第に学校生活とは全く異なる生活になってしまいました。みるみるうちに欠席が重なり、試験を受ければ赤点の山。校則違反も絶えることなし。
こうした危機的状況を目の前にしながら、母親として私は何もできず、オロオロとするばかり。6月終わりの蒸し暑さの続く頃、二男の持病であったアトピー性皮膚炎がこれまでになかったほど悪化しました。目茶苦茶な二男の生活に絶え切れず、二男の体が悲鳴をあげ救いを求めたのでしょう。これが幸いしました。日頃、親など相手にもしない当時の二男も、この時ばかりは母親に助けを求めてきました。アトピー治療のご縁で、二男もすんなりと内観する気持ちになりました。また、親も子も共に内観する大切さをお聴きし、私もさせていただくことになりました。
いよいよ内観、本番。二男は1学期が終わるとすぐに内観しました。「俺、もしかすると変われるかもしれない」と電話してくるほどの心境にしていただきました。もちろんアトピーはきれいになり、身も心も晴れ晴れとして帰ってきました。そんな二男を見習えとばかり、追って8月には私の初めての内観。今から思いますと、とても浅い内観ではありましたがく自分がとても幸福な場に居る〉ということに気づかせていただき、びっくりするほどの光の中へ導かれました。
〈この光あふれる美しい世界、暖かくすがすがしい大気に包まれ、私は身も心も軽い。私の周囲には愛しい人々がたくさんいて、こんな私でも優しくしっかりと支えてくれる。何の憂いも迷いも不安もない。幸せ“〉この体験は、42才になるその時まで、一度も感じたことのないもの。至福そのものでした。
最後になりましたが、私をこれまで内観に導いてくださいました多くの方々に、心からの感謝をこめまして、つつしんで、合掌。

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